この日はオトモタビというデジタルスタンプラリーのようなサービスを使って村を散策していたので、指定スポットとなる大官大寺跡を訪れるきっかけになりました。大官大寺跡はどこにあるかは把握していましたが、農道が自転車で通れる幅なのか不安だったので今まで訪れたことはありませんでした。実際自転車で通りましたが難なく通れる幅でした。




大官大寺跡は天武天皇の勅願により藤原宮の南東に建立されました。当時、飛鳥・藤原において最大の寺域を有していたようです。
7世紀後半から終末にかけ国家が営む大寺として繁栄し、大正10年に国指定の史跡となりました。お寺の名前は百済大寺→高市大寺→大官大寺と改称され、平城京遷都の際に現在の寺院名である大安寺となっています。
飛鳥時代、国家が営む4大寺院は大官大寺の他に飛鳥寺、薬師寺、川原寺がありました。

7世紀後半から終末にかけ国家が営む大寺として繁栄し、大正10年に国指定の史跡となりました。お寺の名前は百済大寺→高市大寺→大官大寺と改称され、平城京遷都の際に現在の寺院名である大安寺となっています。
飛鳥時代、国家が営む4大寺院は大官大寺の他に飛鳥寺、薬師寺、川原寺がありました。

大官大寺跡の伽藍は文武朝期のものであると発掘調査により判明したようです。
朱鳥元年(686年)には天武天皇の病気回復の祈願が寺院で行われ、持統天皇の治世には梵鐘が鋳造され、文武天皇の御代には国家のシンボルとなる九重塔や金堂が完成し大寺院となりました。

朱鳥元年(686年)には天武天皇の病気回復の祈願が寺院で行われ、持統天皇の治世には梵鐘が鋳造され、文武天皇の御代には国家のシンボルとなる九重塔や金堂が完成し大寺院となりました。

平城遷都とともに大官大寺も新都に移され大安寺と改称され、旧寺は711年に藤原京の大火で焼失しその後再建されることはなく現在では田畑が広がり石柱と土壇が大官大寺がかつてこの地にあった名残を示すのみとなっています。


明治中期までは金堂跡と塔跡、礎石が残されていたようですが、明治22年橿原神宮造営の際に運び去られたそうです。橿原神宮のどこに使用されたかは不明ですが、今このようなことが行われると大問題になりそうですね。


大官大寺跡からは雷の丘や香久山、明日香村方面が見渡せます。ぽつぽつと彼岸花が咲き始めていました。
お昼は久しぶりに岡地区のラヴィーユ都さんでミートドリアをいただきました。何度も食べているのに古代米が使われていることに初めて気づきました。
大官大寺跡の地図
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