少子部栖軽(ちいさこべのすがる)は、雷の神に仕える巫女とも、神の声を聞くことができた女性とも言われていて、雷の丘に住んでいたとされています。「すがる」という名前には「すがりつく者」や「祈る者」という意味が込められているとも言われていて、雷の神に祈りを捧げ、災いを鎮める役割を果たしていたんじゃないかと考えられているようです。

以下Wikipediaからの抜粋になります。

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『日本霊異記』によると、天皇が磐余の宮の大極殿(大安殿)で后と寝ているとき、あやまって栖軽がそこへ入ってしまった。天皇は恥じた。そこへ雷鳴がとどろいたので、天皇は栖軽に「あの雷をお招きしてこい」と命じた。
そこで栖軽は赤色のかづらを額につけ、赤旗を付けた鉾を捧げ持って馬に乗り、阿部の山田村の前から豊浦寺の前の道を走り、軽の諸越の分かれ道のところに来て、大声で「天の雷の神よ、天皇がお呼びですぞ」と叫んだ。そこから馬を引き返しながら「雷神といえども、天皇のお召しに応じないことができようか」と言った。
その途中、豊浦寺と飯岡との間で雷が落ちていた。栖軽は雷を輿に入れて天皇の元へお運びした。雷は光を放って明るく輝いたので、天皇は畏れて幣帛を供えて雷をもとのところに返させた。その場所は飛鳥の小治田の宮にあり、いま雷の丘と呼んでいる。
そののち栖軽は死に、忠臣ぶりを偲んだ天皇は雷が落ちた場所に墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と碑文の柱をお立てになった。雷はこれを怒って鳴り落ちて碑文の柱を踏みつぶした。ところが柱の裂け目に足が挟まって捕らえられた。天皇は雷を逃がしてやり、碑文の柱を立て「生きても死んでも雷を捕まえた栖軽の墓」となさった、とある。
雷の丘はかつて雷ヶ城と呼ばれる山城があったと伝えられています。

この城は、南北朝時代から戦国時代にかけて、越智氏という豪族が築いたとされていて、明日香の地を見渡す戦略的な場所に位置していました。丘の上からは大和三山や飛鳥川の流れが一望できるので、見張りや防衛の拠点としてはぴったりだったようです。

今では城郭の遺構はほとんど残っていませんが、よく見ると城壁の名残などを確認できます。
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